駅は本当に美しいということ

ドーナツとタバコを吸いながら電車が来るのを延々と見ている。電車音は、あの無機質な箱の中に誰かが常に乗っていて、馬鹿げているとも思う一方で、安心する気もする。いつも感情の話ばかりしているので、たまには駅について書く。
私は駅という駅が好きで、よく駅に行く。しかし所謂鉄道オタクの方々とは少し違う(バカにしているわけではない)。私が好きな駅は都市の、めちゃくちゃに人が多い駅であって、けして田舎の路面電車ではない。私が好きなのは駅そのものであって、電車の系を記憶することではない。私の思う駅の良さというのは、たくさんの人間が訪れるのに、毎日(多少のダイヤの乱れはあってもほぼ)確実に存在していること、そしてその姿がとても美しいことである。
坂口安吾の『日本文化私観』のなかの一節で、「美について」というのがある。所謂必要美について書かれている。法隆寺平等院が燃えたところで一向に困らない、むしろそういった類のものはなにか納得して美しさを感じなければならない。それよりも刑務所や病院だとかドライアイス工場のレールだとか、美について全く考えられていないけれども、それがそこにしか存在し得ない、必要然としている状態にあるものに美しさを感じるというものだ。
私は高校の時に読んで、全くそのとおりだと思った。私は駅や道路やスーパーマーケットの美しさを知っている。それがそこに必要であるという理由で建てられた建物たちの美しさを知っているのだ。だから東京駅の建て直された姿は、全く馬鹿げているとしか思えないようなノスタルジーにかまけたものとしか思えない。必要ならば作る、必要でないなら壊す、ただそれだけだ。
そこに必要だと思われるものをその場所に作ることの美しさというのは私だけが感じているのだろうか。
あまり長くなっても読んでもらえなくなるので、ここで終わりにする。

日本文化私観 (講談社文芸文庫)

日本文化私観 (講談社文芸文庫)