意識のすべてがプログラムであれ

人間の意識がすべてプログラムであれ、というどうしようもない考えに至った。

最近の私は就活中なので書類選考が通って、次は面接というところ。面接の前なので企業について調べていた。社員の声(よくある)を読んでいて、この会社に世界が変わった、自分が未来の世界を変えていく、などといった社員の方々の声を読んでいると眩暈がしてきた。私は基本的に素直な人間なので、この人たちが心の底から未来の社会を創造していくと本気で考えていると思った。けれど、世間的にはそういうことを言うのは、”建前”というらしい。想像もできない。

人が以前「偽りの自分が上手く働いていないんじゃない?」と私に話した。作業的な取り組みとか処理すべきタスクみたいなものは偽りの自分が作用してやってくれる。やってくれるという言い方は変だけれど、まあ仕方ない、みたいな感じで仕事をする。普通の人はそうやって上手く嫌なことをやり過ごしているらしい。それが働かないとなると、本当の自分がそういう嫌な仕事も引き受けなくてはならなくなる。本当の自分は感情が伴うので、コントロールが難しい。処理すべきタスクをとても嫌な気持ちで処理し続けることになる。実際に私は嫌なことはすぐに投げてしまうし、できるだけ避けて通ろうとしたり、もしくは本当の自分が建前を言うべきところで本音を言ってしまう。さらに悪いときには本当の自分が嘘で固めた建前を話すので、私は本当に嫌な気分になってしまう。面接でファンタジーがつくれないのもそのせいなのかもしれない。みんな本当に虚構を言うのが上手い。私の偽りの自分が作用してないのは自明である。どの仕事も本当の自分がやっているから感情がどんどん失われてしまう。悲しみ。

でも、人間の意識がプログラミングされたものだと考えるとどうだろうか。そういうことはまったくもってありえないことだとわかっているのだけど一つの思考として持っていても良いものだと思う。すべてプログラムだったとしたら、彼らが虚構ばかりを並べ立てていてもまったく問題がないし、むしろ理に適っているすら思う。これから面接があるけれど、相手もプログラミングされた人間だと思えばさして怖くない。私は私以外の人間に自分と同じような意識と感情があることを恐れすぎている。この思考は私のいまの状況を回避するための一つの方法としてあながち間違いというわけでもないのかもしれない。だから私は一時的に人間の意識がプログラムであるということにした。本当はそうではないことは重々承知の上、である。そして私自身もプログラムされたものの一部であると認識することで、私自身の感情を恐れる必要がなくなるのである。